Sophie Calle - ソフィ・カルについて

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Sophie Calle  ー  ソフィ・カルについて

ソフィ・カルは1953年パリにて
アートコレクターで腫瘍医学者の父と
評論家で記者の母の間にユダヤ人家系の子供として生まれる。
カルが5才の頃両親が離婚し彼女は母に引き取られ
母と母方の祖父母と共に暮らす。

彼女が高校生だった当時、1968年-70年のパリは
五月革命と呼ばれる学生と労働組合が反体制的な運動を最も過激化させていた時代であり、 彼女自身も政治運動や男女同権運動、毛沢東思想などに関心を傾倒させており、また彼女はフランスの著名な思想家のJean Baudrillard-ジャン・ボードリヤール(1929-2007)に師事していた。

15才の頃、彼女は祖父母によって当時エジブトと対峙していたユダヤ人国家のイスラエルをサポートする為、 補助金を携え現地へと送られる。(消耗戦争:1967年-1970年)

その後、 彼女は18才の時イスラエルに対して抵抗運動をするアラブゲリラ(Fedayeen)と戦うグループに所属するためイスラエルに隣接するレバノンへと赴く。

しかしそこで彼女は本物の銃を目の前にし、
戦争に対する恐怖心と共に、自分にはまだその心の覚悟が十分に出来ていない事、
また自分の抱いていた闘争欲求は思春期における稚拙でロマン思想的な欲求だった事に気付く。

彼女には銃を運ぶことさえ出来ず、
また戦争の為の労働全てに疑問を抱き始める。

レバノンの後、彼女は戦地を離れ旅に出ることを決意する。

彼女は当面の旅費を確保する為、ボードリヤールに協力を仰ぎ父親を騙していた。

「私は当時ジャン・ボードリヤールに師事していた。父は私が大学の卒業証書を取得するのであればお金を送る事を約束した。しかし私は旅に出たく卒業を待てなかった。私がそのことをボードリヤールに相談すると、彼は心配しなくていい。他の学生の試験用紙を君のものとして提出してあげよう。 君は問題なく卒業証明書を手に入れられるだろう。と彼は言ってくれた。」

彼女はこのエピソードを秘密にしていたが2009年(ボードリヤール死去の2年後)のインタビューで告白した。Interview : Sophie Calle- stalker, stripper, sleeper, spy | Art and design |より


彼女は何年か仕事をしながらアメリカを旅した後、
カリフォルニアのボリナスという沢山の詩人が住む奇妙な町に辿り着き、
そこで以前写真家が住んでいた暗室付きの部屋を借りて住んだ。

彼女は以前の住人が残したカメラを使い、
名前のない奇妙な墓の写真を撮り始めた。
(その墓には名前はなく、代わりに母や娘、妹、父といったような肩書きだけが刻まれていた。)


彼女はいくらかボリナスで過ごした後、父と相談の上パリへ戻ることを決意し、
1978年(当時25歳)に帰国。

しかし、彼女はパリにいた当時は、反体制運動の戦闘員を目指していたため、
パリでの自分の目的を持ち合わせていなかった。

 

彼女は自分自身に目的がない事に落ち込み、そして自分を外に連れ出す手段として次第に他人の尾行をするようになってゆく。 その行為は自分の意思決定を必要としなかったので当時の彼女にとって大変都合のいいものだった。

 
はじめ彼女は見知らぬ人々を単に尾行するだけだったが、尾行という行為に対してもっと真剣に取り組む意識が芽生え始め、尾行中にメモや写真を取り出すようになった。

そこから派生して始まったのがSuite Venitienne(ベニスへの尾行)1980というプロジェクトだった。

その当時は彼女にとってプロジェクトをアートとして行う意識はなく、あくまで「個人的な活動」という意識に過ぎないものだった。

前年に行われていたプロジェクトのThe Sleepers (眠る人たち)1979も、写真をより学ぶための活動だったと彼女はインタビューで話している。

 

しかしThe Sleepers (眠る人たち)1979で参加した女性の夫であった著名な美術評論家のBERNARD LAMARCHE-VADEL-ベルナール・ラマルシュ=ヴァデル(1949-2000)の目に彼女のプロジェクトが留まり1980年のパリ・ビエンナーレで紹介されることとなる。

 

彼女のThe Sleepers (眠る人たち)1979は「被写体との親密さを物語る写真」と「あくまで冷静な人類分析として書かれたテキスト」の対比性が見事に演出されていると高く評価され、彼女がアーティストとしての地位を獲得する上で大きく貢献する役割を果たし、そこから彼女のアーティストとしての道が始まった。*1

*1.HOW SOPHIE CALLE BECAME AN ARTIST November 20, 2015 By Literary Hub より典拠

 

彼女の作品は自分や他人の体験や物語を通して、ビデオや写真、文章、映像などのコミュニケーションメディア(伝達媒体)を組合わせたコンセプチャルな作品としてよく知られており、 その初期の作風はコレクターである彼女の父が収集していたアメリカの写真家Duane Michals(デュアン・マイケルズ) (b. 1932)の、情緒や哲学的な文章を写真と組み合わせた作品に大変影響を受けていることが伺える。*2

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 Duane Michals : All Things Mellow in the Mind; The Most Beautiful Part of a Man's Body, 1986

 

*2. Sophie Calle - Guggenheim Museumより典拠。

 

彼女の作品に対する個人的解釈

さて、あらかた彼女の経歴を洗ったところで個人的見解をはじめてみましょう。

解説で記述したようにカルの作品はしばしば主観的視点(自分の見方)と客観的視点(他人の見方)を巧みに作品に取り入れて、 事実や認識の曖昧さ真実の虚像性などを訴えかける作品が多く見受けらます。
要するに「真実ってなんなん?それって見方によって変わりません?」ってことですね。

僕がカルの様々な作品を理解する上で最も重要なテーマが「認識」*2という概念では無いかと思っています。「解釈」と言い換えてもいいかな。 

*2認識(にんしき)は基本的には哲学の概念で、主体あるいは主観が対象を明確に把握することを言う。知識とほぼ同義の語であるが、日常語の知識と区別され、知識は主に認識によって得られた「成果」を意味するが、認識は成果のみならず、対象を把握するに至る「作用」を含む概念である。(Wikipediaより)

例えば、彼女の作品に自分の母親に探偵を雇ってもらい一日自分を尾行させ、その報告書と自分の行動の認識を比較検証した作品The Shadow (影) 1981や、盲目の人々に対して「美しさとは何か」といったある意味禁忌的な質問 (よーそんな質問できるな…汗) をし、それを基に撮影した写真と答えを展示した作品The Blind(盲目) 1986、また自分に送られて来た彼氏からの「別れのメール」を107人もの女性に対してコピーを送り、それぞれの解釈と表現を提供してもらう作品Take care of yourself (自分を大切に。) 2007など、常にそれぞれの認識の差異や誤差、そして「それ(差異)はどれだけ互いに理解しようとしても完全に一致することはない。」つまりは自己と他者とのコミュニケーションの限界という普遍的で本質的な真実を表現しています。

 

例えば、昔僕が感動した風景をどれだけ頑張って相手に伝えても
実際に見た風景そのものを相手が完璧に想像することは無理だよね。ってことです。

 

そんな様々な作品の中で、僕が特に素晴らしいと思いまた特に社会的な物議を醸した作品が、ある道で拾った一冊の個人的なアドレス帳からそこに記載されている人々に対して持ち主に関する質問の答えを聴取し、持ち主の肖像を間接的に浮かび上がらようとした「The Address Book」 (住所録) 1983と言う作品です。

 

それぞれの質問の答えから浮かび上がる持ち主の人物像は、ある意味 (回答者にとっては)「真実」でもありながら、その人の主観的な解釈や認識によって浮かび上がった側面的で偏った「虚偽像」でもありますよね。(山田さんってAさんからみたらすごい親切な人だけど、Bさんからみたら血も涙も無いような人でした的な感じですね。)

 

この作品はプライバシーの侵害として訴訟問題にもなりかけもしましたが、(そりゃそうだろ。) 解釈や認識によって浮かび上がる真実の曖昧さを露見させる方法としては大変秀逸な作品でもあったと感じています。

 
このようにカルの作品において認識または解釈は重要な要素であり、彼女の作品を見る上での取っ掛かりまた鍵として大いに役立つと思います。(あくまで個人的にですが)

様々な批評や論文で語られる事の多いカルの作品ですが、頭のいい人の論文はぶっちゃけ何が言いたいのかあんまりよくわかんないです。(僕の知能指数が低いというのも大いにあると思いますが...)
でも言い回しが難しいだけで要はそういう事なんだろうなとか思ってる次第です。
(むしろ頭悪い人に伝わらない論文って逆にナンセンスなのでは。とか思ってます。)

 
最後に、「人間は万物の尺度である。」by プロタゴラス (古代ギリシャの哲学者)
という言葉を記載して個人的解釈を終わります。パチパチ。


主な作品紹介

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Suite Venitienne(ベニスへの尾行)1980

彼女は尾行中に道で見失った男性と後日カクテルパーティーで再度出会う。
男性がその場で友人とヴェニスへの旅行計画を話しているのを盗み聞き、彼女は変装し男性を尾行する事を決意する。彼女はついには彼を見失ってしまうが、尾行中に撮影した写真とその時の観察記録を並列した作品。

 

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The Sleepers (眠る人たち)1979
彼女は自分の友人を介し合計23人に自分のベットで睡眠(8時間)を取るように相談を持ちかけた。承諾した人々には撮影といくつかの質問に答えることを許可してもらい、彼女は彼らとの会話内容や寝相などの痕跡を撮影した写真を展示した。
*パリ・ビエンナーレ(1980)出展作品

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The Shadow (影) 1981
彼女は自分の母親に探偵事務所へ行き自分を調査する為の探偵を雇うように依頼した。事情を知らない探偵は1日かけて彼女を調査し、彼女はその探偵の報告書、自分が撮られた写真と共に彼女自身が記したその日の日記、セルフポートレイトを並べて展示した。

 

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The HOTEL (ホテル) 1981
彼女は友人の紹介でヴェネツィアのホテルに3週間一時的に雇われた。彼女は清掃員として4階の12部屋を割り当てられ、清掃の傍、宿泊客の個人的な所持品を調べ、彼らの詳細な宿泊生活を観察し、彼らの痕跡を写真に収め部屋の詳細が綴られたテキストとともに展示した。

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The Address Book (住所録) 1983
6月彼女は道で、ある住所録を発見した。彼女はその住所録のコピーを取り、匿名で最終ページに記載してあった持ち主(Pierre D.)の住所へ原本を返送した。そこから彼女はコピーを元に記載されている人々へ連絡を取り、実際に会ってPierre D.の情報を間接的に聴取し、その彼らの認識情報によってPierre D.のパーソナリティー(人物像)を導き出そうとした。
彼女のその情報は1983年(8月2日-9月4)に約1ヶ月間毎日「Liberation」新聞に連載された。Pierre D.がその記事を発見した際、彼は激怒し、彼女はプライバシーの侵害で訴えられる寸前にまで及んだ。また彼は新聞社に報復として彼女のヌード写真を掲載するよう要求した。彼女は彼に二度とその情報をフランスで発表しない事を約束し事はなんとか沈静化した。また彼は「私が死んだら、君はその作品を自由に発表すればいい。だがそれは今じゃない。」と彼女に言った。

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The Blind (盲目) 1986
彼女は生まれつき盲目の人々に対し「美しさとは何か」また「それはどんなイメージか」という質問をした。作品はその人のモノクロ写真、その人の美しさに対する答え、またその答えを聞いた彼女が再現したイメージ写真の3つで構成されてる。しかし彼女が再現したイメージは彼らが思い描くイメージと完全に一致する事はなく、またそれを確認することもできない。鑑賞者は作品を通じてそこにはどうすることも出来ない認識の隔りがある事を知ることとなる。

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Exquisite Pain (限局性激痛) 1999
1984年10月25日彼女は研究奨学金を得て日本に3ヶ月間滞在する事になった。
彼女は当時この滞在に対し大変消極的で非意欲的な姿勢であった。
それは彼から「きみが遠くに行くのなら、別れることになるかもしれない。」と警告されていたからだった。滞在が終わった後、インドで落ち合うはずだった彼と会うことが叶わず、彼女はホテル(261号室)から彼に電話をかけその電話で別れを告げられる事となる。このExquisite Painという作品は破局までの92日間をテーマとしたカウントダウン破局から苦悩を追い出すまでのカウントアップと題された2部によって構成されている。

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カウントダウン
「〜days to Unhappiness」(不幸まであと〜日)と彫られた赤いスタンプを3ヶ月間に撮影した思い出の写真や紙媒体(手紙、チケット、パスポート等)に押し、それにテキストを添えて破局を迎えるまでのカウントダウン形式として展示。

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カウントアップ
彼女は1985年1月28日に帰国後、様々な友人や知人にこの破局の事実を打ち明け、そして「あなたが最も苦しかったのはいつだったか。」という質問をし始めた。それは自分と他人の痛みを比較検証し、自分の痛みを冷静に客観視するためでもあり、また繰り返し打ち明ける事によって痛み自体を風化するためでもあった。三ヶ月後、その行為を通じ彼女は自分の中から痛みそのものを消す事に成功した。

作品自体は「様々な角度から話された彼女の破局の物語」(黒い布に白糸で刺繍文字)と「寝室に置かれた実際に破局の電話がかかってきた赤い電話の写真」、「友人の最も苦しかった物語」(白い布に黒糸で刺繍文字)と「それに関係する写真」の4つの要素で構成されている。※カルの物語の書き出しは全て「〜日前、愛している男に捨てられた。」から始まる。

彼女の物語の文章は枚数を重ねるごとに文字数は短くなり最後には文字が全て消え失せ彼女が苦悩から解き放たれた事を暗示している。

この作品もまた他者とのコミュニケーションを通じ事実に対する認識を変換させる事をコンセプトとした作品である。事実自体が変化するわけではないが認識また解釈を変化させる事によりその認識自体の変動性や不確実性を見事に表現している。

またこの作品の初展示は作家の要望にて日本の原美術館にて1999年に開催。

2部のカウントアップでは作家のJean-Michel Othoniel(ジャン=ミシェル オトニエル)も物語を提供している。

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Take care of yourself (自分を大切に。) 2007
付き合っていた彼から送られてきた別れのメールを彼女の編集者と記者の2人の友人の人脈を通じて107人の様々な職業の女性に送り、手紙の分析と表現を依頼した。
(ダンサー、歌手、小説家、広告代理店、キュレーター、漫画家、タロット占い師など、またその中には動物(オウム)や木も含まれていた。)
カルは彼女達から返ってきた分析結果を作品として展示した。
この作品は起こった事実に対し客観的な視点を通じて再解釈することにより、一つの事実に対しての解釈の多様性を表現している。

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The last Image (最後に見たもの) 2010
2010年欧州文化首都の仕事の為イスタンブールで滞在制作をしていたソフィカルは、1986年に制作したThe Blind (盲目)以降、盲目の人に関する作品のアイデアを追求していた。
リサーチの結果、彼女はイスタンブールが「盲目の街」と呼ばれていることを知る。

その由来はイスタンブールに最初に住むようになった人々が美しく肥沃な岸ではなく、醜い方の岸に住んでいたため、そのように呼ばれるようになった。(伝承神話)
記者会見録 / ソフィカル録 [原美術館] より

彼女はそこからプロジェクトを着想し、その町の後天的な盲目の人たちに「最後に見たものは何か」という質問を行なった。そしてその答えと答えを元に撮影した写真、参加者のポートレイトの3つの要素で作品を構成した。


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Voir la Mer (海を見る) 2011
イスタンブールにてThe last Image (最後に見たもの) 2010を滞在制作していたカルは海に囲まれたイスタンブールで、一度も海を見たことがない人々がいることを新聞で知る。またそのほとんどが内陸部出身の貧困層として掲載されていた。
そこで彼女は、その人たちが住んでいる場所を訪れ、一度も海を見たことのない人たち14人を海に連れていき、初めて海を見る瞬間を映像作品にした。