Bharti Kher - バールティ・ケール について
About Bharti Kher - バールティ・ケール について
1969年 イギリス、ロンドン生まれ
1991年 Newcastle Polytechnic (現:ノーサンブリア大学)で絵画を学び卒業
1992年 インド、ニューデリーに移住
1993年 現代作家Subodh Gupta - スボード・グプタ(1964年-) と結婚
現在 2人の子供を持ち現代作家としても活動。
彼女の両親は1967年にインドからイギリスに移民。
彼女は生まれてから20年以上イギリスで過ごした。
大学では絵画を学び卒業後1992年にインドを訪れる。
そのまま様々な場所を旅するつもりだったが
インドでグプタと恋に落ち、そのままインドで暮らすことを決意する。
インドで現代作家としての活動は最初の10~15年間は大変厳しいもので、本当に作家として生きていくことを決意するのには何年もの間、激しい拒絶反応と孤独感が付きまとい大きな勇気が必要だったと彼女は言う。
そんな苦境の中、トラックに積み込まれ弱り果てたメスの象の写真が載った地元新聞に着想を得て2006年に制作したグラスファイバー(ガラス繊維)状の実寸大の象の彫刻が彼女にとって現代作家としてのキャリアを築くきっかけになった。
The skin speaks a language
(2006) bindis on fiberglass (精子状のビンディーで覆われた原寸大の象)
またその彫刻は珍しい精子形状のBindi - ビンディーが全体に施されていた。
Bindi - ビンディーとはインドにおいて、本来は精神的世界と物質的世界をつなぐ第3の目としての象徴であり、また既婚女性が額に装着する飾りでもあるが、現在は単にファッションアイテムとして未婚既婚また男性女性関係なくインドでは一般的に着用されている。
2007年にNYの Jack Shainman Gallery で行われた彼女の初個展の際、この象の彫刻作品が美術評論家や美術関係者に大いに評価された。
その時の様子を彼女は「私は突然不思議な力を手に入れた感覚だった。」とインタビューで答えている。
その頃からビンディーを取り入れた独特な作風は、彼女の代表的な表現となっていった。
彼女は時代とともに役割が変化していったビンディーを作品に取り入れることによって社会変化の必要性について考える媒体として示唆している。
Untitled (2008) Bindis on painted board
彼女の作品はCharles Saatchi - チャールズ・サーチ 、François Pinault - フランソワ・ピノー、Frank Cohen - フランク・コーエン などアートシーンに対し絶大な影響力を持つ世界の著名なコレクター達にも所蔵されており、近年ではロンドンサザビーズにて彼女の作品が約1億6700万円で落札され、インドの作家の中で最高落札価格作家としてニュースになり、今日ではインドで最も成功した女性アーティストとして評価されている。
彼女は幼少の頃に学校で学んだボス、ブレイク、ゴヤなどの作品に見られる魔法の獣、神秘的なモンスター、寓話的な物語などから大いに影響を受けており、その奇怪さを作品に含ませながらインドの主体性や社会においての女性像の問題をテーマに制作している。
Hieronymus Bosch -ヒエロニムス・ボス ( ca.1450 - 1516 )
William Blake - ウィリアム・ブレイク (1757-1827)
Francisco José de Goya - フランシスコ・デ・ゴヤ (1746-1828)
特に彼女のHybrid Series - ハイブリッドシリーズと呼ばれる写真作品では、獣と女性が組み合わさったキメラのような生き物が育児や家事をしている様子や、ファッションで着飾った姿など、現代社会から暗黙的に要求された女性らしさを醸し出しており、奇怪的なユーモアを含みつつ彼女の皮肉的なコンセプトが巧みに表現されている。
彼女は以前のインタビューにてこのハイブリッドシリーズが今尚続く彫刻の起源となっていると語る。
彼女の作品は主に家庭空間から着想を得ており「家庭とは子供や家族や生活に起こるあらゆることの始まりであり、種であると私は考えています。私たちは新聞に書かれているような広い世界 (政治や経済) について話しますがそれらは全て家庭という小さな世界にも存在しているのです。そして家庭には暴力、ユーモア、社会的地位、経済的地位、出自、男性・女性らしさの定義、役割、全てがあります。家庭とは愛、欲望、成長、保護のための場所であり政治、社会的圧力、経済的地位を伴う場所でもあり、また関係性について学び、社会で生きていく術を築く場所でもあるのです。」と彼女の中の家庭というものの捉え方を明言している。
上左) The hunter and the prophet - from the series Hybrids (2004) digital c print
上右) Angel - from the series Hybrids (2004) digital c print
中左) Chocolate muffin- from the series Hybrids (2004) digital c print
中右) Family portrait - from the series Hybrids (2004) digital c print
下左) Feather duster - from the series Hybrids (2004) digital c print
このハイブリッドシリーズでも登場する犬の頭と掃除機が合体したものは実際に彫刻作品 Hungry Dogs Eat Dirty Pudding - 餓えた犬たちは汚れたプリンを食べる (2004)としても制作され、その様はスイスの女性作家のMeret Oppenheim - メレット・オッペンハイム (1913-1985) の作品を想起させる。
Hungry Dogs Eat Dirty Pudding (2004) Fibreglass, plastic, bindis
Meret Oppenheim "Object" 1936 fur-covered cup, saucer, and spoon
彼女の作品を語る上でインドに渦巻くカースト制度(階級制度)の存在は大きい。
ヒンドゥー教のカースト制度は1950年に廃止されたとはいえ何百年もの間インドに根強く浸透しており廃止されてから60年たった今でもその影響は深くインド文明に息づいている。カースト制度は家父長制度であり、それもあって女性差別にも深く関係しており女性は長年抑圧の対象とされてきた。
*詳しくはインドにおける女性をご覧ください。
また彼女は1990年代においてインドではまだまだアートシーンが確立されておらず
彼女自身苦労した背景を踏まえ、インドにアジア現代作家のためのプラットフォームを形成する決意をし、夫とその他の現代作家と協力し1997年に非営利団体のKHOJ国際芸術家協会を設立した。現在彼女はその組織の会長職に就いている。
その他作品紹介
An Absence Of Assignable Cause - 追求するべき原因の不在 (The Heart) (2007) bindis on fiberglass
Arione 2004 Fiberglass, leather, fabric, bindis, steel, aluminum
Arione's sister 2006 Mixed media
Sing to them that will listen - 聴く者たちへ鳴れ 2008
Rice grains on which English words are written by ink, metal bowl, marble stand
*シンギングボールの中の米粒に書き込まれているのはインドの新聞の結婚求人欄に記載されていた言葉。
シンギングボールの音色は古の時代から「波動」と「浄化」の力を持つとされ、背骨や体の痛みをとる、心と身体が安らぐなどの効果があり重用されてきた。
インドの結婚事情についてはこちら
The Messenger (2011) Fibreglass, wooden rake, sari, resin, roc
Six Women (2013 - 2015) Mixed media
インド東部の市街地コルカタの売春街ソナガチで働く高齢女性をモデルに制作された彫刻作品
A line through space and time (2011) wood, paint and bindis
日本での主な展示
2009年 「チャロー!インディア」インド美術の新時代、森美術館、東京
2010年 トランスフォーメーション展、東京都現代美術館、東京
個人的な解釈
さてバールティ・ケールの経歴や作品を一通り見てきたところで
個人的解釈また補足に入っていきます。
インド人として生まれイギリスで育ったケール。
彼女の作品を見る限りかなりインドにおける女性問題に対して積極的に言及する作品を作っているのが見て取れます。
ここからは少し推測も含みますが、それは多分彼女自身が大人になってからインドに来たことが大きく関係してると思います。
インドにおいてカースト制度での女性への扱いはもう根深すぎて常識もしくは暗黙の了解レベルと考えられます。確かにカースト制度は1950年に禁止され若干緩和されているのかも知れませんが1000年以上も歴史のあるカースト制度が、たかだか60年程度で払拭されるとは考えにくい。だから「えっ、女男平等ってなに?」って感じの人が未だ大多数なのが現状だと考えられます。
そこへイギリスで20年以上過ごし「カースト制度ってなに?」状態のケールがインドで生活するようになったら、そのカースト文化に対してのカルチャーショックとその制度に対する拒絶反応は凄まじいものだった事は容易に想像できます。
もちろん少しいき過ぎた推測かも知れませんが、そこに対して問題意識を持っていることは彼女の作品を見れば明白ではないでしょうか。
既述した彼女の代表作であるThe skin speaks a language, not its own 《その皮膚は己の言語ではない言葉を語る》(2006) は今にも倒れそうな弱り果てたメスの象の彫刻作品で、その肌全体には精子状のビンディーがびっしり装飾されています。
その彫刻は精子という男性記号あるいは男性象徴によって全体を施された(=支配された)、メスの象(=管理また抑圧対象である女性)とも読み取れ、役割を強要され抑圧されている女性像を見事に表現していると感じます。
また彼女の作品はそういった悲観的な側面だけでなく、時代によって役割が変化して来たビンディーを使用することで社会変化への積極的な促進と必要性を共に喚起しています。
僕がケールの作品で特に好きなのがHybrid Series - ハイブリッドシリーズによる一連の写真作品です。このシリーズは合成写真の作品なのですが見でわかるように獣と女性が合成されていてその姿はキメラ化してます。
そして彼女らは皆、家事や育児をしていたり、派手なファッションで着飾っていたりと
その姿はどれも社会的にフォーマット化された女性像に当てはめられています。
また背景がなく中央に据えられた構図は、まるで標本のような雰囲気を醸し出しており飼育空間に閉じ込められた野生動物のような印象も与えます。
またその反面でこの作品は女性のうちに宿る強さや秘めたる野生性を見事に表現しています。
彼女の作品を捉える上で女性問題だけをテーマとして取り上げることは間違いなく不十分ではありますがインドの文化背景などを考えながら彼女の作品を構成する要素として捉えることは、鑑賞する上で大変有意義だと考えられます。また彼女のマテリアルとしてしばしば登場するヒンディーは時代とともに役割が変化してきた変化の象徴的な素材であり、彼女のそういった女性問題やその他を含む「変化することへの前向きな願い」が込められているように感じられます。
Chung Chang-Sup - 丁昌燮 (チョン チャンソプ) について
Chung Chang-Sup ー 丁昌燮 (チョン チャンソプ) について
1927年 韓国忠清北道生まれ
1946年 ソウル大学校美術大学絵画科入学
1951年 ソウル大学校*1美術大学絵画科卒業。
*1第二次世界大戦終戦後アメリカ軍政庁によって
当時韓国にあった9つの専門学校を統合して開設された学校(1946年10月15日開校)
1961年 - 1993年 ソウル大学校にて製作と並行して教員として勤務
1993年 ソウル市民功労勲章を受賞
2011年 ソウルにて死去
丁昌燮 (チョン・チャンソプ) は1970年代中頃より始まったと言われる李禹煥 (リ・ウーファン) 、朴栖甫 (パク・ソボ) など
日本でも馴染みのある作家を始めとする
韓国人作家達による美術動向「単色画」(モノクローム・ペインティング)の主要メンバーの一人であった。
ただ、この「単色画」の作家たちは組織的に活動をしていたわけではなく1980 年に美術批評家の李逸 (イ・イル) の言及によって、
主に中間色を用いた抽象的な絵画作品を描いた韓国作家たちの集まりを「単色画」の作家たちと呼ぶようになった。
昨今、彼を含める単色画作家たちの活動は
ソウル、東京、パリといった各地での展覧会が開催され、国際的に韓国現代美術を代表する動向として注目を集め、戦後の朝鮮美術の原動力とも呼べるその動きは先に挙げた
李禹煥(リ・ウーファン)、朴栖甫(パク・ソボ)などの来日作家たちによって日本作家たちへも多大な影響をもたらした。
*李禹煥(リ・ウーファン)はソウル大学校を3ヶ月で中退し横浜の叔父を妨ね1956年に日本に移住。
美術批評家としても活動し韓国の美術雑誌に日本の批評を寄稿していた。
モノ派作家らへの活動促進力としても大いに貢献した。
1940年代から60年代にかけての抽象画への流れは、ほぼ同時多発的に世界中で芽生え、互いに影響を与えながら活発化してきたが、韓国の単色画、欧州のアン フォルメル*1、アメリカの抽象表現主義、また日本の関西を拠点として始まった具体美術など、その推移様式はどれも大きく異なり独自の文化色を携えながら、それぞれに発展していった。
*1フランス人美術評 論家のミシェル・タピエ (Michel Tapié de Céleyran) (1909 - 1987)によって1952年頃より提唱された抽象表現理論。『日中韓におけるアンフォルメル様式の展開と独自性』関西大学論文より典拠
韓国の場合それは伝統的な韓国の東洋精神と
西洋の抽象絵画との統合とも呼べるものだった。
そこには日常や自分の内面の中から真理を見出す禅や儒教などの東洋思想も大きく作用しており、またチョンは
『制作においての究極の目標は、描写を必要とせず意図せぬところから湧き上がる世界を描くこと。長く真実を探求する者が神を垣間見えるようになるように、東洋の精神論 (Oriental spiritualism) と西洋の唯物論 (Occidental materialism) が私の孤独な旅路の果てで交差し調和する事を私は信じている。』
という自身の制作理念を示す言葉も残している。*2
*2 Chung Chang-Sup - Axel Vervoordtyより典拠。
チョンは70 年代初期まで西洋のアンフォルメルを探求し、油絵の抽象画を手がけていたが、油絵の粘り気のある特性は彼の性格において相性はあまり良くなかった。
当時、彼の油彩画は大量のテレビン油を混ぜ合わせ使用していた。*3
*3 Johyun Gallery : Chung Chang-Supより典拠。
Sympathy 33 (1968) oil on canvas
その後、彼は西洋のテクニックから離れ、韓国独自のアイデンティティーを表現する方法を模索するようになる。
韓屋 (韓国の伝統的な家屋)にも使用されている韓紙 (ハンジ) を素材として着想を得た。
韓紙(ハンジ)は古くから書道、書物また建築の内装や窓などにも幅広く用いられ
東洋文化にとって昔から身近にある伝統的な素材であった。
1970年後半から韓紙(ハンジ)をキャンバスに成形して貼り付ける Return (歸) シリーズの作品を作るようになる。*「歸」とは"帰る"や"戻る"と言った意味を持つ中国語。回帰などの意味も持つ。
*韓紙とは
桑科の植物の楮(こうぞ)などの樹皮から精製され1枚の紙を作るまで非常に長い工程と忍耐力を要する。
Return 77-A (1977) Ink and paper mounted on canvas
Return One-G (1977) Ink and paper mounted on canvas
1980 年代になるとチャンは、既成の韓紙(ハンジ)を使用した作品では韓紙自体の意味合いが伝わりづらく背景として見なされてしまう事に表現の限界を感じ、自らスタジオで丹念に加工し質感を生かした韓紙を製造するようになり、それを用いた作品TAK(楮)シリーズを制作するようになる。
Tak 202-83 (1983) Tak paper (mulberry fiber) on canvas
Tak No.84019 (1984) Tak (best fiber) on canvas
Tak 89029 (1989) Tak (best fiber) on canvas
また1990年に入るとチョンはTAKシリーズを更に昇華させるべく
作品に色彩を加え始め、今では彼の代表作と言われるMeditation(默考)シリーズの制作を始めた。
彼は自ら製紙した韓紙を天然色素(タバコの葉や炭など)で染めて作品に使用したり、まずキャンバスを着彩しその上から韓紙を貼るなど様々な表現の可能性を追求し、このシリーズの制作は彼が亡くなるまで続けられた。
Meditation No.91033 (1991) Tak (best fiber) on canvas
UNTITLED (1992) Tak (best fiber) on canvas
Meditation No.93900 (1993) Tak (best fiber) on canvas
Meditation No. 941116 (1994) Tak (best fiber) on canvas
Meditation No.9606 (1996) Tak (best fiber) on canvas
Meditation No.96401 (1996) Tak (best fiber) on canvas
Meditation No. 98808 (1998) Tak (best fiber) on canvas
Meditation No.23712 (2003) Tak (best fiber) on canvas
Meditation No.25404 (2005) Tak (best fiber) on canvas
Meditation No.25804 (2005) Tak (best fiber) on canvas
韓紙に着目した当時の記憶について
彼は1986年のインタビューにて以下のように答えている。
"I remember the first thing I saw in the morning was a ray of sunlight penetrating through the tak paper window. "
「私は朝、日光が韓紙で出来た障子を通過して部屋を照らしているの目にした。それが最初のきっかけだったことを覚えている。」
参考URL
世界で評価を高める韓国の「単色画」。キュレーターが魅力を語る | CINRA.NET
日中韓におけるアンフォルメル様式の展開と独自性
Chung Chang-Sup - Axel Vervoordty
Johyun
Chung Chang-Sup | Kukje Gallery | Artsy
日本での主な展示
1982年 韓国現代美術の位相展、京都市美術館、京都
1985年 個展、ギャラリー上田 、東京
1992年 韓国現代美術展、三重県立美術館 他、各所
1994年 韓国4人展、東京画廊、東京
1999年 個展、東京画廊、東京
2017年 単色のリズム 韓国の抽象、東京オペラシティアートギャラリー、東京
個人的な解釈
とまぁ、チョンの事をあらかた調べてみたが
ここからは集めた情報をもとに個人的な解釈をはじめてみよう。
まず世界で同時多発的に起きたと言われる抽象画への移行。
フランスの1940年代-1950年代のアンフォルメルについてはタピエが提唱したのが始まりだが
ピカソ(1881-1973)、ブラック(1882-1963)のキュビズム世代からモンドリアン(1872-1944)やガンディンスキー(1866-1944)らの冷たい抽象(と呼ばれる)世代にかけて既に抽象絵画へ移行する下地は整っていたように思える。またその下地に一応マティス(1869-1954)、パウル・クレー(1879-1940)らも加えておくとしよう。
とにかくこの19世紀後半から20世紀初期にかけてキュビズム、ドイツ表現主義、ダダイズム、シュルレアリズムと数え出したらきりがないほど「もう写実とか印象とか古いし、もっと絵画の可能性を拡張しようぜ。内面性とか感情を描いてもいいじゃん。」という流れが出来ていて最終的に「もう描く対象とかいらなくない?」という流れにもなり抽象の世界ではマレーヴィチ(1879-1935)の有名な「黒の正方形」(1915)をはじめとする無対象を主題としたシュプレアリスムに繋がった。
この辺りを詳しく記述すると多面的すぎるしチョンの話が出来ないのでこの辺にしておくとしよう。
その当時の美術の流れや流行については各国の世界に耳を傾ける作家ももちろん時間差はありながらも知るすべは持っていたようにも思える。油絵の具が輸入されてたのと同じように情報も輸入されてたはずだからだ。
さて今日はチョンの話だった。
チョンはそう言った抽象画へ流れを知りつつ当時の西洋の油絵の具と言う最先端ツールを使い最新の表現である抽象を製作していた。
(流行最新ファッションを追い続けていたわけですね。)
ただやはりどうしても自分の東洋的な感性に合わない。薄く伸ばしてもこのネバネバした質感に違和感を感じる。自分はもっと韓国という自分の国を具現化したような表現をしたいんだ。という気持ちを強く感じて悩んでいた彼は韓紙という素材に出会った。
韓紙は彼が幼少の頃から慣れ親しんでいたものだったし韓国の生活にも深く根付き伝統的な意味合いもすごくあったので「これいけるんちゃうん?」となったわけだった。
(大いにざっくりさせてます)
そこから彼は韓紙を使った表現を追求していくこととなる。
最初に作ったReturnシリーズは今まで外側を向いて西洋化していた自分をルーツを追求する旅(内面を探る旅)へ立ち帰らせるという意味合いと決意で付けられたタイトルであった。
彼は生涯韓紙の表現の可能性の追求に従事した。
(もともと職人気質だったんでしょうね。)
韓国の作家によく見られる傾向として
自分の制作に対してそれを仕事として極めていく。という感じがすごくしますね。
修行というか黙々と打ち込むというか、同じ繰り返しの日常や作業の反復の中から
悟りや何かを見出そうとする。そう言うところもすごく東洋的な感性を感じます。
日本は島国でいろんな文化が海から入って来て文化形成されている国なので
韓国よりはそういった傾向が薄いのかもしれませんが、同じく職人気質を重んじる国ですよね。
そう考えると日本やアジア諸国というのは外へのアプローチより内へのアプローチを得意とする国風なのかもなぁ。
(技術とかはすごいけどPRとかは下手というのもそういうのが影響してるのでは)
なんてことを考えたりするのでした。
チョンは死去するまで韓国に留まり、母校にて芸術教育に約30年従事したりと
生涯その身を自身の表現の探求と国の美術発展のために尽くした人でした。
Gim Hong-sok - ギム ホンソックについて
Gim Hong-
ギム ホンソックは1964年にソウルで生まれ
1987年にSeoul National University (ソウル国立大学彫刻科)を卒業した後
ドイツの大学院Kunstakademie Düsseldorf (デュッセルドルフ美術アカデミー)を修了。光州(2012年, 2006年, 2002年)、リヨン(2009)、イスタンブール(2007)、アートバーゼル(2007)、ヴェニス(2005,2003)、台北(2000)を含む様々なアートフェアや国際ビエンナーレなどに多く出展しており、現在はソウルを拠点に活動している。
ギムホンソックは、超写実主義的な制作姿勢と、ユーモアを含んだ素材の変換で著名な韓国作家です。彼は既存のものからの転用と盗用の間に在る境界を歩み、作品の持つ信憑性と芸術というものを構成する根源的な要因、つまりは「芸術は何によって芸術たり得るのか。」という問いに対してしばしばアプローチしています。
彼の作品によく見られる人を欺く外観の作風は彼の翻訳に対する好奇心を反映しており、あたかも本当のような架空の物語や歴史を作り出し視覚的な皮肉とユーモアを孕んだ作品によって鑑賞者を意図的に欺しています。
かつて彼はArtAsiaPacificのインタビューにおいて「主に韓国で上映されている西洋番組の韓国語字幕を通じて、私たちは“間接な手によって作り出された別世界”を経験しているのだ」と彼はメディアについて説明していました。
彼のMaterial (2012)やUntitled (short people) (2017)といった積み重ねられた風船の彫刻作品では、彼の翻訳に対する独自の解釈が表出しています。
Material (2012) Untitled (short people) (2017)
それは風船自体の外見の弱さにも関わらず、地面に直に接着しています。
なぜならその風船は重質な樹脂やブロンズによって出来ており、それによって素材(風船)に対する鑑賞者の先入的期待を裏切る状況を作り出しているのです。
そういった独自の作風から彼の作品において、テキストによる説明はただの見せかけに過ぎず全く信用できないものとなっています。
彼が2006年の光州ビエンナーレで発表したThe Talk (2004)で彼は、外国人労働者を演じるプロの俳優を雇い映像作品に出演させました。
その俳優が演じる労働者は自分の法的な権利を主張していますが、その映像の下部に映し出された英語字幕には韓国で成功したインド人労働者の物語が映し出されていました。つまり映像の労働者の主張と映し出される字幕とではそこに大きな矛盾が発生しているのです。
The Talk (2004)
この作品も彼のいう“間接な手によって作り出された別世界”を表現しています。
またBremen Town Musicians (2006–7)という作品のために壁に書かれた説明文では、彼は展示期間の間、メキシコ労働者たちに動物のコスチュームを着てポーズを取ってもらうために彼らを雇い、報酬として時給5ドルを支払う事を観客に向けて説明していました。しかし実際に動物のコスチュームを着せられているのはメキシコ労働者ではなくただのマネキンだったのです。
Bremen Town Musicians (2006–7)
この中身がマネキンであるという事実や英語字幕の虚偽への気づきは、事実を偽装しているにも関わらず結果として作品に対する観客の道徳的な不安を解消します。ギムホンソックの作品は、この世界で疑いようもなく認識された言説やイメージに対して依存することを全面的に拒絶しています。つまりは目に見える事実を鵜呑みにすることの危険性を喚起しているのです。
2008年には、ギムホンソックは廃棄された段ボール箱、ラッピング用の紙、ゴミ袋などのアートが生み出す副産物に着目しそれらをモチーフとして使用した”補足的な建造物”を彼の作品に取り入れ始めました。A Study on Slanted Hyperbolic Constitution (2010) という作品では彼はある角度で二つのダンボール箱を積み重ね、(アートの二次的な副産物の)平凡な素材をアートとして仕立て上げ、まるでマルセル・デュシャンの革新的なレディメイドまたファウンドオブジェクトのコンセプトに共鳴したように見せかけました。
A Study on Slanted Hyperbolic Constitution (2010)
ギムホンソックの作品はしばしば他のアーティストによる作品を引き合いにしています。例えば先に触れた彼のBremen Town Musicians (2006–7) はイタリアのマウリツィオ・カテランのLove Lasts Forever (1999) の動物の組み合わせから借用しており、雇用労働者を使った実践(ギムホンソックの場合は偽装された雇用人だが)はスペインのサンタゴ・シエラから参照しています。
一方、A Study on Slanted Hyperbolic Constitution (2010) のタイトルはデイヴィッド・スミスの近代彫刻を、またその段ボールの重なりから見て取れるLOVEの形状はロバート・インディアナの画期的なタイポグラフィーを想起させます。ギムホンソックの主だった西洋の作家たちに対するアプロプリエーション(盗用芸術)はアートを成り立たせる要因と世界のアートシーンの中の西洋以外の作家たちが占める立ち位置を強調しています。それはつまり西洋が支配するアートの歴史の中でその歴史に接続しようとする、長年「その他の作家たち」として見なされてきたアジアの作家たちの挑戦がアートの主題となっているのです。
その他の彼の作品では時給労働者に自分の絵画をモップで消すように指示を出した作品 MOP series (2012)(その作業にかかった費用は労働派遣庁が提示した賃金基準に従って雇用者に支払われる)や著名な作家の作品をあからさまに盗用したものREAD series (2005)などがあり、アートがアートとしての価値をもつ構造や根拠、また作家と制作労働者の関係性、植民地主義の影響など広範囲に渡る複雑な言及も作品に含意させています。
MOP-130327 (2013) urethane paint on canvas
ギムホンソックは2006年に中国のチェン・シャオション (1962-) と日本の小沢 剛 (1965-) と共に結成した「西京人」(Xijing Men)にてコラボレーションしている事でも知られています。中国語で西の首都を意味する「西京」は彼らが生きる現代的な世界を反映して3人の作家によって作られた架空の都市です。彼らは西京という街を、現実に実在はしていなくともアート作品や展覧会を通じて実体化させています。彼ら西京人は2008年に彼らが定めたルールと様々なスポーツゲームを実施したパフォーマンス映像を西京オリンピックと言う作品として発表しました。スイカをサッカーボールに置き換えたりパンの塊を使った射撃などのユーモア溢れるこの作品の演出は2008年の北京オリンピック開催という機会に合わせて開催されました。日本では2016年に金沢21世紀美術館で西京人 - 西京は西京ではない、ゆえに西京は西京である。が行われました。
彼はテレビなどのメディアから様々な間接的情報を入手することを好み
その収集した単語や物語から派生させて作品を構想していることで知られています。
既述した西京人 - 西京は西京ではない、ゆえに西京は西京である。の展覧会でのギム ホンソックの展示スペースには、 Mr.B と題された一体のうさぎの着ぐるみの作品が展示され、その作品の後ろには、「うさぎの着ぐるみをまとうこの人物は不法入国した韓国出身の労働者で、時給10ドルで美術館に雇われてパフォーマンスに参加している」といったキャプションが添えられていました。
Mr.B
「実際に労働者を雇ってパフォーマンスしてもらうのがこの作品として正しいのでしょうか。それとも、マネキンに着ぐるみを着せて立体作品として展示することが正しいのでしょうか。パフォーマンスとは何なのか、芸術とは何をすることをいうのか、何をしたら平凡な何かが芸術たりうるのか。そうしたことを考えるために、私はこの作品を制作しました」と彼は作品について説明しています。
金沢に「芸術を愛する人々が住む国=西京国」が出現 | PAPERSKY より典拠
「韓国は1945年に独立した新しい国です。そして、新しい国にとって何が必要かを考えるなかで、とくにアメリカを参照、模倣して、その文化を翻訳することから自国のアイデンティティーを築き上げてきた。私の関心は、その2つの文化の間にある可能性とオリジナリティーの問題です。たとえば、ある文章をハングルから英語、そして再びハングルへと翻訳したとき、その文章はもとの作家のオリジナルと言えるのかどうか? そうしたことを作品にしてきました。もちろん、その過程では誤読も起こります。私にとっては、韓国人が西洋風の髪型と衣装を身にまとい、ハングルで歌うオペラは悪夢的なものでした。でもそんな雑種性を認めることも、一方では重要なわけですね。」
「自分が正しいと信じているものや、周囲で当然のように通用している価値観が、じつは決して自明ではなかったりする。韓国が経験したように、それは誰かによって選び取られた言葉なのかもしれないわけです。ある国のなかにいるだけではなかなかそれに気づけませんが、絶対化を疑う視線を常に意識しておくことが重要でしょう。」
*オリンピックも開催する架空の国「西京国」のユーモアとは何か? | CINRA.NETより典拠
その他の作品
This is Rabbit (2005) resin, fabric, foam rubber, wood board
8 breaths (2014) sculptures in bronze
DIN A series (2013) cast resin
READ - Damien Hirst, DREAMS AND CONFLICTS, p35 (2005) c-print, framed
A Study on Slanted and Hyperbolic Constitution-Cubi XII of David Smith (2017) cast bronze
Untitled (Short People) - 7 balloons (2017) stone, urethane paint on bronze
Inadequate (EVERY, DAY, ACTS, LIKE, LIFE) (2016) urethane paint on bronze
Bearlike Construction-629 (2013) bronze, plastic bags, steel fence
Canine Construction (2009) bronze
LOVE (2011) car paint on stainless steel
Pickets (2004) acrylic paint on board
Sophie Calle - ソフィ・カルについて
Sophie
ソフィ・カルは1953年パリにて
アートコレクターで腫瘍医学者の父と
評論家で記者の母の間にユダヤ人家系の子供として生まれる。
カルが5才の頃両親が離婚し彼女は母に引き取られ
母と母方の祖父母と共に暮らす。
彼女が高校生だった当時、1968年-70年のパリは
「五月革命」と呼ばれる学生と労働組合が反体制的な運動を最も過激化させていた時代であり、 彼女自身も政治運動や男女同権運動、毛沢東思想などに関心を傾倒させており、また彼女はフランスの著名な思想家のJean Baudrillard-ジャン・ボードリヤール(1929-2007)に師事していた。
15才の頃、彼女は祖父母によって当時エジブトと対峙していたユダヤ人国家のイスラエルをサポートする為、 補助金を携え現地へと送られる。(消耗戦争:1967年-1970年)
その後、 彼女は18才の時イスラエルに対して抵抗運動をするアラブゲリラ(Fedayeen)と戦うグループに所属するためイスラエルに隣接するレバノンへと赴く。
しかしそこで彼女は本物の銃を目の前にし、
戦争に対する恐怖心と共に、自分にはまだその心の覚悟が十分に出来ていない事、
また自分の抱いていた闘争欲求は思春期における稚拙でロマン思想的な欲求だった事に気付く。
彼女には銃を運ぶことさえ出来ず、
また戦争の為の労働全てに疑問を抱き始める。
レバノンの後、彼女は戦地を離れ旅に出ることを決意する。
彼女は当面の旅費を確保する為、ボードリヤールに協力を仰ぎ父親を騙していた。
「私は当時ジャン・ボードリヤールに師事していた。父は私が大学の卒業証書を取得するのであればお金を送る事を約束した。しかし私は旅に出たく卒業を待てなかった。私がそのことをボードリヤールに相談すると、彼は心配しなくていい。他の学生の試験用紙を君のものとして提出してあげよう。 君は問題なく卒業証明書を手に入れられるだろう。と彼は言ってくれた。」
彼女はこのエピソードを秘密にしていたが2009年(ボードリヤール死去の2年後)のインタビューで告白した。Interview : Sophie Calle- stalker, stripper, sleeper, spy | Art and design |より
彼女は何年か仕事をしながらアメリカを旅した後、
カリフォルニアのボリナスという沢山の詩人が住む奇妙な町に辿り着き、
そこで以前写真家が住んでいた暗室付きの部屋を借りて住んだ。
彼女は以前の住人が残したカメラを使い、
名前のない奇妙な墓の写真を撮り始めた。
(その墓には名前はなく、代わりに母や娘、妹、父といったような肩書きだけが刻まれていた。)
彼女はいくらかボリナスで過ごした後、父と相談の上パリへ戻ることを決意し、
1978年(当時25歳)に帰国。
しかし、彼女はパリにいた当時は、反体制運動の戦闘員を目指していたため、
パリでの自分の目的を持ち合わせていなかった。
彼女は自分自身に目的がない事に落ち込み、そして自分を外に連れ出す手段として次第に他人の尾行をするようになってゆく。 その行為は自分の意思決定を必要としなかったので当時の彼女にとって大変都合のいいものだった。
はじめ彼女は見知らぬ人々を単に尾行するだけだったが、尾行という行為に対してもっと真剣に取り組む意識が芽生え始め、尾行中にメモや写真を取り出すようになった。
そこから派生して始まったのがSuite Venitienne(ベニスへの尾行)1980というプロジェクトだった。
その当時は彼女にとってプロジェクトをアートとして行う意識はなく、あくまで「個人的な活動」という意識に過ぎないものだった。
前年に行われていたプロジェクトのThe Sleepers (眠る人たち)1979も、写真をより学ぶための活動だったと彼女はインタビューで話している。
しかしThe Sleepers (眠る人たち)1979で参加した女性の夫であった著名な美術評論家のBERNARD LAMARCHE-VADEL-ベルナール・ラマルシュ=ヴァデル(1949-2000)の目に彼女のプロジェクトが留まり1980年のパリ・ビエンナーレで紹介されることとなる。
彼女のThe Sleepers (眠る人たち)1979は「被写体との親密さを物語る写真」と「あくまで冷静な人類分析として書かれたテキスト」の対比性が見事に演出されていると高く評価され、彼女がアーティストとしての地位を獲得する上で大きく貢献する役割を果たし、そこから彼女のアーティストとしての道が始まった。*1
*1.HOW SOPHIE CALLE BECAME AN ARTIST November 20,
彼女の作品は自分や他人の体験や物語を通して、ビデオや写真、文章、映像などのコミュニケーションメディア(伝達媒体)を組合わせたコンセプチャルな作品としてよく知られており、 その初期の作風はコレクターである彼女の父が収集していたアメリカの写真家Duane Michals(デュアン・マイケルズ) (b. 1932)の、情緒や哲学的な文章を写真と組み合わせた作品に大変影響を受けていることが伺える。*2
Duane
*2. Sophie Calle - Guggenheim Museumより典拠。
彼女の作品に対する個人的解釈
さて、あらかた彼女の経歴を洗ったところで個人的見解をはじめてみましょう。
解説で記述したようにカルの作品はしばしば主観的視点(自分の見方)と客観的視点(他人の見方)を巧みに作品に取り入れて、 事実や認識の曖昧さや真実の虚像性などを訴えかける作品が多く見受けらます。
要するに「真実ってなんなん?それって見方によって変わりません?」ってことですね。
僕がカルの様々な作品を理解する上で最も重要なテーマが「認識」*2という概念では無いかと思っています。「解釈」と言い換えてもいいかな。
*2認識(にんしき)は基本的には哲学の概念で、主体あるいは主観が対象を明確に把握することを言う。知識とほぼ同義の語であるが、日常語の知識と区別され、知識は主に認識によって得られた「成果」を意味するが、認識は成果のみならず、対象を把握するに至る「作用」を含む概念である。(Wikipediaより)
例えば、彼女の作品に自分の母親に探偵を雇ってもらい一日自分を尾行させ、その報告書と自分の行動の認識を比較検証した作品The Shadow (影) 1981や、盲目の人々に対して「美しさとは何か」といったある意味禁忌的な質問 (よーそんな質問できるな…汗) をし、それを基に撮影した写真と答えを展示した作品The Blind(盲目) 1986、また自分に送られて来た彼氏からの「別れのメール」を107人もの女性に対してコピーを送り、それぞれの解釈と表現を提供してもらう作品Take care of yourself (自分を大切に。) 2007など、常にそれぞれの認識の差異や誤差、そして「それ(差異)はどれだけ互いに理解しようとしても完全に一致することはない。」つまりは自己と他者とのコミュニケーションの限界という普遍的で本質的な真実を表現しています。
例えば、昔僕が感動した風景をどれだけ頑張って相手に伝えても
実際に見た風景そのものを相手が完璧に想像することは無理だよね。ってことです。
そんな様々な作品の中で、僕が特に素晴らしいと思いまた特に社会的な物議を醸した作品が、ある道で拾った一冊の個人的なアドレス帳からそこに記載されている人々に対して持ち主に関する質問の答えを聴取し、持ち主の肖像を間接的に浮かび上がらようとした「The Address Book」 (住所録) 1983と言う作品です。
それぞれの質問の答えから浮かび上がる持ち主の人物像は、ある意味 (回答者にとっては)「真実」でもありながら、その人の主観的な解釈や認識によって浮かび上がった側面的で偏った「虚偽像」でもありますよね。(山田さんってAさんからみたらすごい親切な人だけど、Bさんからみたら血も涙も無いような人でした的な感じですね。)
この作品はプライバシーの侵害として訴訟問題にもなりかけもしましたが、(そりゃそうだろ。) 解釈や認識によって浮かび上がる真実の曖昧さを露見させる方法としては大変秀逸な作品でもあったと感じています。
このようにカルの作品において認識または解釈は重要な要素であり、彼女の作品を見る上での取っ掛かりまた鍵として大いに役立つと思います。(あくまで個人的にですが)
様々な批評や論文で語られる事の多いカルの作品ですが、頭のいい人の論文はぶっちゃけ何が言いたいのかあんまりよくわかんないです。(僕の知能指数が低いというのも大いにあると思いますが...)
でも言い回しが難しいだけで要はそういう事なんだろうなとか思ってる次第です。
(むしろ頭悪い人に伝わらない論文って逆にナンセンスなのでは。とか思ってます。)
最後に、「人間は万物の尺度である。」by プロタゴラス (古代ギリシャの哲学者)
という言葉を記載して個人的解釈を終わります。パチパチ。
主な作品紹介
Suite Venitienne(ベニスへの尾行)1980
彼女は尾行中に道で見失った男性と後日カクテルパーティーで再度出会う。
男性がその場で友人とヴェニスへの旅行計画を話しているのを盗み聞き、彼女は変装し男性を尾行する事を決意する。彼女はついには彼を見失ってしまうが、尾行中に撮影した写真とその時の観察記録を並列した作品。
The Sleepers (眠る人たち)1979
彼女は自分の友人を介し合計23人に自分のベットで睡眠(8時間)を取るように相談を持ちかけた。承諾した人々には撮影といくつかの質問に答えることを許可してもらい、彼女は彼らとの会話内容や寝相などの痕跡を撮影した写真を展示した。
*パリ・ビエンナーレ(1980)出展作品
The Shadow (影) 1981
彼女は自分の母親に探偵事務所へ行き自分を調査する為の探偵を雇うように依頼した。事情を知らない探偵は1日かけて彼女を調査し、彼女はその探偵の報告書、自分が撮られた写真と共に彼女自身が記したその日の日記、セルフポートレイトを並べて展示した。
The HOTEL (ホテル) 1981
彼女は友人の紹介でヴェネツィアのホテルに3週間一時的に雇われた。彼女は清掃員として4階の12部屋を割り当てられ、清掃の傍、宿泊客の個人的な所持品を調べ、彼らの詳細な宿泊生活を観察し、彼らの痕跡を写真に収め部屋の詳細が綴られたテキストとともに展示した。
The Address Book (住所録) 1983
6月彼女は道で、ある住所録を発見した。彼女はその住所録のコピーを取り、匿名で最終ページに記載してあった持ち主(Pierre D.)の住所へ原本を返送した。そこから彼女はコピーを元に記載されている人々へ連絡を取り、実際に会ってPierre D.の情報を間接的に聴取し、その彼らの認識情報によってPierre D.のパーソナリティー(人物像)を導き出そうとした。
彼女のその情報は1983年(8月2日-9月4)に約1ヶ月間毎日「Liberation」新聞に連載された。Pierre D.がその記事を発見した際、彼は激怒し、彼女はプライバシーの侵害で訴えられる寸前にまで及んだ。また彼は新聞社に報復として彼女のヌード写真を掲載するよう要求した。彼女は彼に二度とその情報をフランスで発表しない事を約束し事はなんとか沈静化した。また彼は「私が死んだら、君はその作品を自由に発表すればいい。だがそれは今じゃない。」と彼女に言った。
The Blind (盲目) 1986
彼女は生まれつき盲目の人々に対し「美しさとは何か」また「それはどんなイメージか」という質問をした。作品はその人のモノクロ写真、その人の美しさに対する答え、またその答えを聞いた彼女が再現したイメージ写真の3つで構成されてる。しかし彼女が再現したイメージは彼らが思い描くイメージと完全に一致する事はなく、またそれを確認することもできない。鑑賞者は作品を通じてそこにはどうすることも出来ない認識の隔りがある事を知ることとなる。
Exquisite Pain (限局性激痛) 1999
1984年10月25日彼女は研究奨学金を得て日本に3ヶ月間滞在する事になった。
彼女は当時この滞在に対し大変消極的で非意欲的な姿勢であった。
それは彼から「きみが遠くに行くのなら、別れることになるかもしれない。」と警告されていたからだった。滞在が終わった後、インドで落ち合うはずだった彼と会うことが叶わず、彼女はホテル(261号室)から彼に電話をかけその電話で別れを告げられる事となる。このExquisite Painという作品は破局までの92日間をテーマとしたカウントダウンと破局から苦悩を追い出すまでのカウントアップと題された2部によって構成されている。
カウントダウン
「〜days to Unhappiness」(不幸まであと〜日)と彫られた赤いスタンプを3ヶ月間に撮影した思い出の写真や紙媒体(手紙、チケット、パスポート等)に押し、それにテキストを添えて破局を迎えるまでのカウントダウン形式として展示。
カウントアップ
彼女は1985年1月28日に帰国後、様々な友人や知人にこの破局の事実を打ち明け、そして「あなたが最も苦しかったのはいつだったか。」という質問をし始めた。それは自分と他人の痛みを比較検証し、自分の痛みを冷静に客観視するためでもあり、また繰り返し打ち明ける事によって痛み自体を風化するためでもあった。三ヶ月後、その行為を通じ彼女は自分の中から痛みそのものを消す事に成功した。
作品自体は「様々な角度から話された彼女の破局の物語」(黒い布に白糸で刺繍文字)と「寝室に置かれた実際に破局の電話がかかってきた赤い電話の写真」、「友人の最も苦しかった物語」(白い布に黒糸で刺繍文字)と「それに関係する写真」の4つの要素で構成されている。※カルの物語の書き出しは全て「〜日前、愛している男に捨てられた。」から始まる。
彼女の物語の文章は枚数を重ねるごとに文字数は短くなり最後には文字が全て消え失せ彼女が苦悩から解き放たれた事を暗示している。
この作品もまた他者とのコミュニケーションを通じ事実に対する認識を変換させる事をコンセプトとした作品である。事実自体が変化するわけではないが認識また解釈を変化させる事によりその認識自体の変動性や不確実性を見事に表現している。
またこの作品の初展示は作家の要望にて日本の原美術館にて1999年に開催。
2部のカウントアップでは作家のJean-Michel Othoniel(ジャン=ミシェル オトニエル)も物語を提供している。
Take care of yourself (自分を大切に。) 2007
付き合っていた彼から送られてきた別れのメールを彼女の編集者と記者の2人の友人の人脈を通じて107人の様々な職業の女性に送り、手紙の分析と表現を依頼した。
(ダンサー、歌手、小説家、広告代理店、キュレーター、漫画家、タロット占い師など、またその中には動物(オウム)や木も含まれていた。)
カルは彼女達から返ってきた分析結果を作品として展示した。
この作品は起こった事実に対し客観的な視点を通じて再解釈することにより、一つの事実に対しての解釈の多様性を表現している。
The last Image (最後に見たもの) 2010
2010年欧州文化首都の仕事の為イスタンブールで滞在制作をしていたソフィカルは、1986年に制作したThe Blind (盲目)以降、盲目の人に関する作品のアイデアを追求していた。
リサーチの結果、彼女はイスタンブールが「盲目の街」と呼ばれていることを知る。
その由来はイスタンブールに最初に住むようになった人々が美しく肥沃な岸ではなく、醜い方の岸に住んでいたため、そのように呼ばれるようになった。(伝承神話)
記者会見録 / ソフィカル録 [原美術館] より
彼女はそこからプロジェクトを着想し、その町の後天的な盲目の人たちに「最後に見たものは何か」という質問を行なった。そしてその答えと答えを元に撮影した写真、参加者のポートレイトの3つの要素で作品を構成した。
Voir la Mer (海を見る) 2011
イスタンブールにてThe last Image (最後に見たもの) 2010を滞在制作していたカルは海に囲まれたイスタンブールで、一度も海を見たことがない人々がいることを新聞で知る。またそのほとんどが内陸部出身の貧困層として掲載されていた。
そこで彼女は、その人たちが住んでいる場所を訪れ、一度も海を見たことのない人たち14人を海に連れていき、初めて海を見る瞬間を映像作品にした。